一乗谷城の歴史
越前朝倉氏が敏景から数えて五代にわたって居を構えた朝倉氏の本拠地。伊勢北畠氏の本拠地、霧山城とほぼ同じ構造で、5kmの狭く長い谷間に一乗川が流れ、その両側に朝倉氏の居館と家臣の屋敷や城下町が造られた。往時は1万人が暮らす京都に次ぐ都市と云われた。また、領主居館の背後、一乗山には山城も備えている。一乗山からの眺めは、一乗谷川(城下)から三国湊まで見渡せた。河川を利用した運輸も考えられ、守るに絶好のポジションに城と城下町が築かれたのだ。
朝倉敏景の代に応仁の乱があり、文明3年(1471)、それまでの朝倉氏の居城、黒丸城を捨て、新たに城を築いたのがそのはじまり。以後100年余りにわたって、朝倉氏は栄華を極める。朝倉五代目義景の代、天正元年(1573)、信長に浅井勢を救援にいったその退却中に攻められ、主立つ家臣を討ち取られ、一乗谷城も落城した(余談だか、討ち取られた中には、岐阜城の元城主、美濃の斉藤龍興もいたらしい)。朝倉義景は、越前大野の戌山城に逃れ、家中の景鏡に裏切られ自害、朝倉氏は滅んだ。
朝倉義景館跡全景。手前に庭園跡があり、すぐ右手の井戸からはゴブレットが出土した。
一乗谷は、一乗谷川に沿って城下町を防御する下城戸(北側)、上城戸(南側)を設けた。
一乗谷城は、義景の代、永禄10年(1567)に将軍足利義昭が逗留し、北国の京都とまで言われた。一乗谷の朝倉氏の居館跡は、国を治める政治の行われた場所であり、初代敏景から、氏景、貞景、孝景、義景と朝倉氏五代の生活空間でもあった。居館跡は、三方を土塁で囲い、その外側の一部はさらに堀をめぐらせていた。屋敷内には、古井戸、湯殿跡、庭園、貯水池などが残る。背後の一乗山は、山腹に見張りの役目をする小見放城跡があり、山頂部には、一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸(三ノ丸が最も高所)とあり、それぞれを、無数の竪堀で囲っていた。
一乗谷山城の畝状竪堀。
一乗谷復原町並。発掘調査をもとに一部のエリアを復元している。当時の町並みを実感できる。
現在、発掘調査などからこれらの規模が明らかになり、100年あまり栄えた朝倉氏の城の全貌が明らかになってきている。復元された武家屋敷があるほか、居館跡の入口に秀吉の寄進と伝わる桃山様式の唐門が、かつての栄華を胸に秘め、どこか寂しげな顔をして建っている。
(文・写真=岡 泰行)