清色城の歴史
鎌倉御家人だった渋谷光重は、1247(宝治元)年の宝治合戦(三浦の乱)の恩賞で北薩地方に地頭職を得、次男以下を下向させた。彼らは、それぞれの地名、東郷・祁答院(けどういん)・鶴田・入来院(いりきいん)・高城(たき)を苗字とした(渋谷五族)。入来院氏の祖は五男、定心(じょうしん)である。
永和(天授)年間の「入来文書」に「清色殿」の記述があることから、清色城はこの頃には築城されていたようだ。なお、当初は北朝側だった島津氏が、水島の陣において今川了俊による少弐冬資暗殺をきっかけに南朝に転じるなど九州の情勢は複雑化していたが、入来院氏は反島津勢力として動いていたようである。
入来院氏はその後、島津氏との間で対立や協力を繰り返しながら、北薩の有力国人としての存在感を見せていた。蛇足ながら島津義久、義弘、歳久の母は、11代当主・入来院重聡の娘である。1595(文禄4)年、13代・入来院重嗣が島津氏に所領を返上し降伏。その後は湯之尾城(大隅国菱刈郡)を与えられている。この頃から、清色城は使用されなくなったとされる。1613(慶長18)年、入来院重高(島津義虎の子)は清色に復帰するが、ふだんは鹿児島城下に住み、当地では地頭仮屋を使用していたとみられ、清色城は廃城となった。
清色城の構造
城の南から東を回り、北へと流れる樋脇川(清色川)を天然の堀とし、現在薩摩川内市入来支所のある東側の城下には、中世から麓集落があったとされている。城域は約29haで、そのうち18haが国指定史跡。シラス台地に手を加え独立した多数の曲輪を、空堀や堀切、土塁で防御している。名前の残っているものは、本丸、西之城、松尾城、中之城、求聞持城、物見之段の6個だが、大小16個の曲輪を含む、77個もの平坦地が確認されている。ちなみに曲輪の名称に「城」の字を充てるのは、南九州の中世城郭によくみられる特徴だ。
(文=mario 写真=岡 泰行)